昭和48年8月1日 月次祭
                           中村良一


(途中から)自分の言うておったり、思うたり、行うておる事がです、ね。例えば、それでは信心にはなれないぞという事であったら、そこに、お気付けを下さるくらいな神様は、頂いておかなければいけない。ね。間違いと思うておっても、神様が、きちっとしたおかげを下さる。これは、自分の思い過ごしであったというように、分るような信心を頂かせてもらう。
この方は、不思議な不思議な病気なんです。もう、三年前から、その、頭が、時々可笑しくなるという病気なんです。それがもう、ちょっとした事が、気になって、気になって、それが、二三時間続くと頭が痛くなるということなんです。どういう事が気になるのかと。ね。あの人に、あげなこつを言うたつが、こりゃ、いけなかったんじゃなかろうかと思い出したら、それがいけないものになって、頭のほうへ来るち言う。ね。だから、ほんなら、今日、あなたが、ここのお願いに見えて、もう、只今を境にです、こげなこと言うちゃいけじゃった。こんな事をしてはいけなかったと言うようなことは、もう、あなたが一人で悩むのではなく、神様がお知らせを下さるようなおかげを、私が、今日から願うからね、あんたが、自分で良かこっじゃろか、悪かこっじゃろかというようなことは思わんようにしなさいと言ったらもう、その事がもう、大変有難い風でした。もう自分で、我流で、はぁ、あげなこと言うた事がいけない。あげな事をしたことが悪か、こう思うて、それが、三時間も続くと、頭が痛くなってくる。そして、何か分からんようになってくると、こう言うのである。ね。それで、自分で、良い悪いを決めずに、神様が、勿論、そこには、教えを頂いて、教えに基づいた、例えば、信心生活をさせていただきながらも、人間、生身の事であるから、どこにお粗末が、ご無礼があるやら分らない。そういう時にです。道を間違えておったら、間違えておるぞと、こう、神様が、お気付けを下さるほどしの、それはちょうど、今、私が、お話をしました、ね。高校一年生の、その人が思うて、ね。親と言い争いをしたり、また、心を神様へ向けてくるという事のなかにです。神様が、生き生きと、もう本当に、お詫びをしなければおられない実感をです。ね。作らせて下さるという、そういう信心を、これからなさったら良いです。だから、少し、頭が痛いごつなった時には、わざわざ、遠いところから参ってくることは要らんから、電話を掛けなさい。その度々に、すっきりするだろう。それでもいけん時には、やっぱ、でてお出でと、と言うて、今日は、お話したことです。ね。
そういう、例えば、信心の、一つの基本のところをです。分らせていただいて、信心を進めて行くという事は、信心が有難くなってくるのであり、いわゆる、信心修行が有難いことになってくる。心に、生き生きとして、有難いものが、感じれんならば、それを、どうかして、有難い。有難いとは思っとる。思うとるけれども、湧いてこないのだから、そこは、ちょうど、草花がしおれかかっておる時に、根を叩いたり、または、焼いたりして、水につけると、ね。そこからまた、新たな水を吸い上げるように、また、新たな花が生き生きとしてくるように、ね。そういう工夫をしながら、信心生活をさせて頂かなければならないと言うておる。
今朝の御理解に、ね。信心をすれば、誰でも、神徳が受けられる。ね。みてるという事がない。信心をすれば、神徳が誰でも受けられるのだと。御理解二節に基づいて、今朝からの御理解でした。
信心をすれば、神徳は誰でも受けられる。これは、神様の願い。氏子信心して、おかげを受けてくれよと。しかも、ね。子孫にも残り、ね。それから、あの世にも持って行けるというのが神徳じゃ。神徳は、信心をすれば、誰でも受けることが出来ると、教えられてあるが、果たして、御道の信心者の全てが、御神徳を頂いておるだろうか。これだけ沢山の人が、皆さん、お参りになっておられるが、本当に、あぁこれが、御神徳と言うものだろうかと思うように、御神徳を心の中に感じて、その御神徳が、段々、大きくなっていっておることを感じて、信心させて頂けるようにならんと、信心が、有難い、楽しいものになってこない。
けれども、教祖の神様が、ね。いい加減なことを仰っておられるはずがない。不真面目なことを、教えておられるはずはない。けれども、信心をすればと言うのは、どういう信心かというと、ね。金光様のご信心をすれば、誰でも神徳が受けられるのである。なら、金光様の信心とは、どういう事か。ただ、参った、拝んだ、お話を聞いた、おかげを頂いた。そういうおかげじゃないのである。それなら、金光様じゃなくても、どこでも出来る。ね。だから、金光様のご信心の、ぎりぎりのところは、どこが目当てか。皆さん、どう思います。ね。信心とは、わが心が、神に向かうのを信心というのじゃと言うのが、金光様のご信心なんです。此方のことを、生神、生神と言うが、ね。みんなも、このようなおかげが受けられる。生神とは、ここに神が生まれるという事であって、みんなも、その通りのおかげが受けられると、教祖は教えておられる。それが、金光様のご信心なんです。だから、そういう信心をすれ場、誰でも、おかげが受けられる。私は、今日の御理解頂きながら、また、新たな、大発見をした思いがいたしました。信心をすれば、誰でも神徳が受けられる。しかもそれは、あの世にも持っていけ、この世にも残して置けれるというほどしのもの。信心をすればという事は、ね。金光様のご信心をすればという事であり、ほんなら、金光様のご信心はとは、その眼目というところは、わが心が、神に向こうていくという事なのである。
これは、他の、例えば、動物がです。ね。いかに、わが心を神に向けたところで、他の、人間以外のものは、神にはなれないのです。神になるとかなら、昨日、平田さんのお話しのなかにあったようにね。神と人間が一体だと言うような話をしておられましたです。本質は、人間は神だと、即、ね。人間、即、神だと。そういう風な、例えば、事が言えれるのは、人間だけなんです。その人間がです。我情我欲を起こしたり、おろ良い事をしたり、思うたりするところから、人間の本性を失ってしまって、神様どころか、人面獣身。姿そのものは、人間の姿をしておるけれども、ね。それこそ、犬畜生にも劣り果てたような心の状態になって、世の中は、いよいよ、混乱状態になってくる。そういう人間が多くなったという事なんです。
ですから、金光様のご信心をすれば、誰でもおかげが、御神徳が受けられる。ほんなら、金光様のご信心とはです、ね。ただ、お願いをして、おかげを頂いたというおかげが、これは一生続いたところで駄目なんです。そんなら、金光様ことは要らん、合楽ことは要らんと言うことになる。ね。お地蔵様を拝んでも、例えば、ご利益は頂かれるという事である。ね。金光様のご信心をすれば、誰でも神徳。なるほど、教祖様は、嘘はおっしゃっていないという事が分かる。そこで、お互いの信心を検討させて頂きますとです。ね。わが心が、神に向こうという事を信心としておるかという事。その眼目。いわゆる、目指しと言うものを、はっきりしておるかという事。ね。
そこで、改めて、わが心が神に向こうのを信心と言うのじゃと言う。それも実践者、体験者と言う者がです。教祖金光大神が身をもって記され、身をもって表されたところの信心を、その信心を受けに受けられた、例えば、先代、先覚の方達が、御神徳を受けておられる方達の姿を思うたが良い。または、見たが良い。そこで、そういう信心を、いかに、神習わせていただかねばならないかという事が分かる。毎日、毎日、お日参りしよるばってん、おかげは頂かん。頂かんはずだというものを、高松和子さんが、もう、改めて分ったように感じ取らせて頂いておる最近だと、こういっておる。ね。
幹三郎がです、この夏季修行を通して、一月間、ね。いうならば、自分の信心の不真面目さというものが、私たちから見ては、とてもとても、私の子供とは思われないほどしに真面目である。こっちは不真面目な。両方言うたら不真面目なつに、あげな素晴らしか子供が出来たもんじゃあると思うぐらいですよ。学院から帰ってきた。もう、あくる日から、三時半に、私と一緒に、ここへでてきます。親教会のお日参りを欠かしたことはありません。ね。マルショウに対する、あの打ち込んでおる熱情というものは、それこそ、最近、マルショウの全体がです。昨日、一番、たまがったことはです。マルショウの人達がです。あぁいう姿勢で、あぁいう一時の御祈念に参加してみて、あの熱烈な御祈念をするようなマルショウは、全国、どこを探してもなかと、平田さんが言っておられます。これには、驚いたち。ね。やっぱり、中心の者達の信心に、やはり、感化を受けるのです。だから、私から見て、私の息子としては、もう、出来過ぎたぐらいに、私は感じておるのですけれども。ほんなら、本人は、一月間の夏季修行を通して、もう、嫌と言うほど、自分の不真面目さを分からせて頂いたという。自分の汚さが分ってきたと言う。それでも願わなければおられないものがある。それが、ね。その命の中からの願いがです。五つの願いに繋がらせていただく時にです。五つの願が素晴らしいことになってくるだろうという意味の事を話しておりました。ね。ですからその、いよいよ、その根本のところがです。誰でも、お徳が受けられるという、その信心の姿勢というものを、先ず作らなければいけんです。ね。
信心とは、わが心が神に向こうのを信心と言うのじゃ。それが、金光教の信心であり。それを、実証してくださってのが、教祖生神金光大神である。此の方のことを、神、神と言うが、みんなも、そのようなおかげが受けられる。此の方が、おかげの受け始めであって、その受け始めである、教祖金光大神が受けられたおかげを、御神徳を、また、その信心を受けられた、その次々、御道の信奉をされた方達が、実際に受けて現しておられる姿を見る時にです。ね。その方達の信心の流儀は違うに致しましてもです。その根底にあるもの。これは、その信心の底に、ね。共通するもの。それは何かと言うと、もう徳を受けるためには、神にわが心が向こうていくに従って、欲が少なくなっていく、欲が無くなってくるという事である。ね。我情我欲を満たして頂きたいために、お願いをしよる、信心をしよる、お参りをしよると言うととはもう、大変な、天地ほどの違いになってくるですね。一遍、欲を捨ててしまうじゃないけれども、様々な問題を通して、ね。もう、我情我欲をとったら、もう、その場で、実を言うたらね、いわゆる、限りなく美しゅうなると、ここでは言っております。限りなく美しゅうなることに努めたら、問題は解消してしまうんです。心の汚さ、その我情我欲が、自分を苦しめておるのであり、悩みの元になっておるのです。ね。だから、そこんところを、私共が、一分一厘づつでも、その事を、自分のものにしていくという事が御道の信心だと分らせていただく。それには、先ず、自分自身が一つ、本気で、自分と言うものが分らなければいけない。
先日、今度、高橋さんのところでは、もう、お店が、支店が沢山になりました。今度また、宮崎に、また出来ます。ね。昨日一昨日、あちらのお母さんがお参りして見えて、「親先生もう、定利は、あげんしてもう、合楽、合楽で、合楽にばっかり来てから、てんで手ばっかり広げよりますが。もう、どげな風になりますじゃろか」ち言うて、心配して言われますもん。「さぁ、どげな風になるでっしょかな」ち、ね。けれども、私が、こりゃ、あの、高橋さんにも、言いよるのですけれども、ね。その、よろずやさんではいけない。いわば、デパートにならにゃいけん。デパートも、ありゃ、大きな万屋さんです。さぁ、万屋さんが、「はぁ、たわしいっちょ下さい」「はい」「沢庵を下さい」「はい」ちかけちやらにゃん、というような事では、とても、なるほど、お母さん、あーたが言うように、手は付けられんでしょうけれどもです。ね。それこそ、肝心要のところに、ちゃんと座っておってから。「はい、宮崎」「はい、長崎」「北九州」今、お店があるところです。ね。「久留米」「福岡」「福岡のどこどこ店」と言ったように、ボタンを一つ、こう押せば、そこのところが、言うなら、高橋さんの末梢神経が、どこにまで、それこそ、見ておったり、監督しておったりする以上に出来ていくようなおかげを頂くために、信心を落とさない限り、信心を緩めない限りに、日本中に広がるかも知れませんよと言うたら。「そうでしょうか」ちてから、言ったら、もう、そう言いなさりゃ、大体、あげな風に、例えば、お金もなかつにあーた、どうしてあげなこつが出来るじゃろかと思うて、私は、陰ながら心配しよりますとこう言うておられる。ね。
で、もうとても、普通では出来ませんから、ね。いわゆる、今度は、株式会社、会社組織になりました。そこでその、株式会社三福寿司と言う。そこで、だから、マークが要るわけです。今までは、丸にこう、三福とこういうようなのが、あちらのマークであった。ですからその、専門家に頼まんならんから、何か、ヒントを頂きたいと、こう言うのである。そしたら、私の御神願にね。稲穂が、両方から丸く、こう垂れ下がってるところを頂いた。稲穂が。ね。そして、車の両輪を頂いた。車の両輪。ね。だから、車の両輪という事は、高橋さんと神様が、親先生と高橋さんが、ね。とか、または、高橋さんと奥さんが、高橋さんと社員の全てがです。車の両輪のように、もうて行きよらなければ、回らんごつなる。そのためにはです。いわば、実れば実るほど、ね。実れば実るほど、頭が下がっていくような、稲穂のような姿。自分が、頭が高い姿を、自分がはっと気が付いたら、はぁ、自分の物が、ほんなものじゃないことを分らせて貰うてと、これを、ほんなら、社長始め、従業員の全部がです、ね。威張る戸がおったら、マークを見せたら、はっと気が付くくらいに、ね。そういうようなものを、まぁ図案化されたら良かろうと言うて申しました事でございます。そこに、神様の願があるわけです。ね。実れば実るほど、頭が下がっていくほどしのです、ね。自分というものを、これは、自分を知る、私は、もう鏡だと思うです。ね。自分が、えらそうに思おうておる時には、もう、空っぽの証拠です。信心のありがた味が無くなっている証拠です。信心の有難さというものが、生き生きとしておる時にはです。もう本当に、頭が地に着くほどしの心の状態というものでなからなければ、有難いと言う心は、神様が与えなさいません。ね。そういうところに、何時も、自分の信心の尺度と言うものを置いたり、または、それを見極めさせて頂きながら信心を進めていく。進めていくというても、信心の、いよいよ、金光様のご信心。信心すれば、誰でも御神徳が受けられるという信心。
金光様のご信心とは、参って拝むという事ではない。それは、なるほど、おかげは受けられても、それは、金光様ことは要らん、合楽ことは要らん。ね。わが心が神に向こうていくと言う姿勢をとらせて貰うて、生神を目指していくと言うのが、金光様のご信心であるとして、そこからです。私共が、日々の、佐田の典子さんじゃないけれどもです、ね。いけないところは、神様がお気付けを下さってからでも、正させてくださるような信心を、先ずは、自分の信心に頂かなければ、体得しなければならない。そこまでは、私は、信心をマスターしなければいけない。合楽の信心の流儀というもの、ね。そこから、本当の、いわば、調子に乗った、本調子の御道の信心が頂けて来るようになり。誰しも、あの世にも持っていかれ、この世にも残ると言うほどしの神徳がいただけれるという信心になる事になるのであります。ね。
いよいよ、七月の、いわゆる、いっぱしの修行も、あのように熱烈な中に、修行を終わらせていただいた。この修行を、ほんなら、どこへ持っていくか。この熱烈な信心によって、受けた信心、分らせていただいた信心を、どう自分の生活の上に現していくかというところに、修行の値打ちがあるのでございます。ただ、一月間、毎日、お参りをしたと言うだけではです。あまりもの信心だと思う。いよいよ、十六日は、夏の祈願大祭でございます。如何に、その祈願大祭をです、ね。どのような祈願の元に、どのような信心の姿勢で向こうていくかという事が、まぁ、大祭までの課題だ。めいめいの信心のところでです。一つ、しっかり頂いていただきたいと思います。えー、明日、明後日、三日は、親教会の夏の祈願大祭であります。十時半からですから、どうぞ、ご一緒に、ご参拝をされる方は、できるだけ多くお参りを頂きたい。また、お初穂を託なさる方は、(?)へお出しを頂きますように、どうぞお願いを致します。どうぞ、よろしゅうお願いします。